普通であることの勇気
「嫌われる勇気」というアドラー心理学について書かれた本をご存知でしょうか?
ロングセラーの書籍で、大きな書店に行けば大抵置いてあります。
https://www.amazon.co.jp/嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え-岸見-一郎/dp/4478025819
その本の終盤に、
「普通であることの勇気」
について書かれていました。
この考え方になるほどなと思ったので、今回はそれについて共有しようと思います。
アドラー心理学には、色々と刺激的なワードが多くありますが、
その中でも「人が持つ悩みとは全て対人関係の悩み」や、相手がどうではなく、全て自分の行動をどうするか?といういう「課題の分離」という用語など多岐に渡り考えさせられる内容があります。
なんなら「褒めるのも相手を下に見てる」ことから出てくるのでやめましょう。など衝撃的な内容もありました。
(これについては、本当にそうかなぁと思いながらも、子どもに対しても1人の人間として敬意を持つとなると、無闇に褒めるのも違うのか?と考えさせられました)
その中でも今回テーマとした
「普通であることの勇気」
が他の本にあまり書かれてないなと思ったので取り上げました。(10年以上前に出版された本なので、当時既にこの考えを世に出しているのがすごいなと思いました)
ここからは僕の解釈が少し入るので、詳しくは「嫌われる勇気」を立ち読み、購入してもらえればと思います。
簡単に言うと、「普通であることの勇気」の内容は、人は何か特別な存在に成りたがっていて、「普通の自分」が受け入れられない。
普通である事=無能である事と同義として捉えている人が多いのではないか?
それは自己をきちんと受容できていないのでは?
と本書で提言していることです。
自分もこの文を読んでいて、短いですが人生33年を振り返ると何か特別になりたくて勉強やスポーツ、遊びではゲーム等と学生時代やっていた気がします。
特に大学生の時は医学部を四浪しても受からず、鍼灸学部がある大学に進みましたが、最初の1年目は学部内で1位にならないと周囲よりも歳が上である自分に価値がない。無能としての烙印を押されたくない一心で頑張って1位になりました。
結果として、達成感はありましたし、周囲も褒めてくれましたが、思っていたよりも一瞬の達成感であり、何か物足りなさ、呆気なさを感じたのは今でもよく覚えています。
結局、学生生活を通して周りが最後に見ていていれてたのは、努力して頑張っている姿の過程や、年上だけども少しアホな部分がある1人の人間としての自分でした。
勿論、成績が良かった部分が拍車をかけて評価された所もありましたが、それ抜きでも上手くやれたのではないかと社会人となってから良く思います。
本書にも「普通であることとは、無能なのではありません。わざわざ自らの優越性を誇示する必要などない」と書かれています。
ここの部分は他者と比較したり、競争したりではなく、昨日よりも今日。今日より明日と己自身が少し前の自分より進んだ、自己成長したという実感が一番大切なんだと伝えているのではと思いました。
むしろ、それ以外の感情とは優越性に繋がり自らを不幸にする危険性があると。
本書のこの部分を読んでいて、やたらめったらSNSで自分の生活等を誇示する人。自分の経歴の話、ブランド品自慢、特別な交友関係をまるで自分の手柄のように自慢する人が世の中にきますが、
アドラー心理学では、どれも普通ではない自分を認めたくない行為の一つとして捉えていると読み取りました。
そこから、最近になって良く考えるのは、自分が10年、20年経った時にどんな状態になっていたいのか?
これを考えて日々を過ごすと他の人がどうかとか全く考えなくなりつつあります。
目指す所は人それぞれ違うと思いますが、万人に等しく与えられた死という生の終わりまでに、確かな「道」が自分の意志で決められる。
その「道」に向かって日々精進すれば人は金銭、生活の良し悪しに限らず幸せになると本書を通して思った次第です。
特別でも何でもなくても、
「それぞれ生きているだけで価値があり、他者に貢献している」ともアドラーは伝えています。
その上で、より良く生きるために、出来る範囲で他者に貢献する自分になれたら素晴らしいのではと言われたような気が本書を読んでいてありました。
他にも色々と賛成、反対の部分はありましたが、ご興味ある方は是非一読してみてください。
